ふと昔のことを車を運転しながら思い出しました。
大学時代に野球をやっていた時のことです。
大学2年の春、オープン戦では1番ショートでレギュラーをやってました。
でも、後輩が入り、レギュラーを取られました。
入ってきて、ポジションを聞いて、プレーを見た瞬間にレギュラーを取られることはわかりました。
そして、自分の実力も良く分かっていたので、しょうがない、とは思っていました。
・・・ふとそんなこともあったな、と思い出しました。
目次
結果と実力の比較の中で生きてきた。
中学時代に遡ります。
強豪シニアでほとんど活躍できないまま、逃げるようにシニアをやめました。
監督に気に入られるか、試合でミスをしないか、試合でヒットを打って結果をだすか、
大体そんな基準でチームメイトと自分を比べてました。
社会ってそんなもんだよ。と大人も言います。
結果を出す人間はどこに行っても、何をやっても結果を残す。
小学校時代は自分の実力、実績、ともにレギュラーにふさわしいし、なによりキャプテンでした。
だから、当たり前、くらいに思ってました。
勉強は?受験に失敗して、偏差値の低い大学にしか行けませんでした。
野球もダメ。学歴もダメ。そんな自分が何か出来るわけないだろう、、、
・・・そんな価値観の中で育ったんだな。と車を運転しながら思う。
存在価値は本当に一つなのか?
会社に入って、少しだけ風向きが変わりました。
相変わらずの部分はありましたが、私は人柄だけはいつも評価されてきました。
誰よりも遅くまで仕事して、難関資格をいくつも取って。
また、雑だけど早い仕事ぶりも評価(?)されて、会社での評価は高かったです。
最終的に1年間の海外留学も経験させてもらえて、本当に自分には勿体ない評価を頂きました。
東大だって、一橋だって、早慶だっていたのに。偏差値で言えば底辺の私だったのに。
思えば高校時代に素人でバスケ部に入ったけど、最終的にはベンチ入りまでできた経験があります。
県16強には必ず入る強豪校でしたが、声出しと人柄だけでベンチに入れました。
存在価値ってその環境で違うんだな、と学ばせて頂くきっかけになりました。
まだ自分の存在価値を認められない。
自分には自信がある!、、、と今でもまだ言えないです。
結局、所誰かが活躍することをサポート出来ても、自分自身で何かを切り開く能力も才能もない。と思っていました。
活躍できる人は、結局は頭が良くてバイタリティのある人だ、と思っていました。
自分は所詮は都合の良い駒の一つでしかない。。。
でも、最近はそうではないんだな、と思ってきました。
いろんな価値観、環境、基準があっていいじゃん。
自分で価値観も環境も基準も決めればいいだけ。その中で生きればいいじゃん。
自分のやりたいことが見つけられていないだけなんだ、と。
ダイバーシティの中に見る、自分の存在意義の証明。
どこまでも自由に自分の意志で道を作り、その道をまた誰かが通って、別の道を作る。
そんな人生を送るために、自分の今できることを「やる!やる!やる!」、これしかないですね。
私は、家族にも仕事にも環境にも才能にも恵まれている。
自分の背よりも高い草木が生えた草原に自分の通った轍を残す。
轍は後輩や悩める人たちの道しるべとなり、草原の楽しさを学ぶきっかけにもなる。
私は轍を残す。そして轍の先で灯台になる。